1)会長の時間
2)幹事報告
3) 委員会報告
4) 辻 邦勇 氏(元裕次郎マネージャー)
「私と裕次郎」
横須賀高中退後松竹演技研修生養 成所5期生として 演技の基礎を勉強。
ホテルで修業 の後、再び芸能界に進み、荒木一郎、藤岡、他のマネージャーを経て、石原プロモーションに入社。石原裕次郎、浅丘ルリ子他のマネージャー、初代芸能部長として約7年間在籍。「石原裕次郎全国縦断リサイタル」の舞台監督や、映画「黒部の太陽」の製作スタッフとして参加。
株式会社「辻 株式会社「辻 企画」を設立。その後、 フリーの映像プロデュサとして、 主にテレビ、雑誌イベントの企画を行い現在至る。
<ロータリクラブとの縁>
平成8年には鈴木清次ガバナーの下、横浜県民ホールにて神奈川・横浜の西洋文化を「ジャズで綴る戦後50年史イン横浜」として地区大会を好評裏に企画しました。
<逗子との縁、裕次郎さんとの出会い>
小学校の時に川地君に連れられて、三角ベースをして遊んでいた時、石原裕次郎さんが砂浜で威張っていました。それが裕次郎さんとの出会いでした。その後、裕次郎さんとバスケの話が切っ掛けで仲良くなり、家にも良く遊びに行きました。ただ、近寄りがたい存在でもありました。
松竹に入ってから、偶然バスの中で裕次郎さんと会った時、「今度俺が主役をやるんだ」と言っていたのが"狂った果実"で、撮影現場にも行きました。
<マネージャーへの道と裕次郎さんとの再会>
日活の食堂で、裕次郎さんから「石原プロを作ったので、来い」と言われ、そのまま虎ノ門のビルに行き、半ば強制的に石原プロに入りました。
<裕次郎さんの本質>
裕次郎さんは52才で亡くなりましたが、その死は自殺に等しいと思っています。大手術の後に酒を飲み過ぎたと聞きます。裕次郎さんの性格は真面目で純粋でした。私が山口洋子さんと一緒に歌詞を作り、両名で作詞をクレジットしようとしたら、裕次郎さんが烈火のごとく怒りました。プロの作詞家とアマを一緒にするなという、まさに真面目な一面でした。
また、裕次郎さんは、寂しがり屋で照れ屋でした。礼儀正しさも一級品で、銀座のクラブで政財界の方に会うと、例え酔ったお客さんでも「兄がご迷惑をおかけしております。」と挨拶を欠かしませんでした。裕次郎さんが嫌い、という人はおらず、皆から好かれていました。映画「黒部の太陽」の時でもギャラ不要と言って参加してくださる俳優さんが大勢いました。裕次郎さんの近くにいた者として、今後もできる限り裕次郎さんの本質を語っていきたいと思います。
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ー 次回例会 -
第3例会 :1月30日(木)18:00
葉山 「海狼」
1)会長の時間
2)幹事報告
3) 委員会報告
4) 国際奉仕フォーラム